やっすーの介護士日記

介護職1年目の23歳です!日々の介護でのお仕事での気づきや思いを投稿したいと思います。

【介護士になったきっかけ② 大好きだった祖父の死】

こんばんは!やっすーです!👨‍🔧

 

一度はほぼ収束したかに見えたコロナもオミクロン株の出現で大変なことになっていますね😓

幸い、就業先の施設や自分の身の回りの人で感染者は出ていませんが、引き続き感染対策に務めたと思います。

 

前回の介護士になったきっかけ① 祖父母の認知症と父の苦悩の在宅介護】では、

実家の隣に住んでいた祖父母が認知症になり、月日と共に症状が悪化。

父の仕事と両立しながらの懸命な在宅介護と通院同行も限界を迎え、

祖父母をサービス高齢者向け住宅に預けることになったところまでをお伝えしました。

 

今回の記事では、介護士になったきっかけ②大好きだった祖父の死】について書いていきます。

僕が介護職を続けている原点になっている話です。

ぜひ最後まで読んで頂けると嬉しいです。

 

祖父母がサ高住に引っ越す日。

父が、祖父母が今住んでいる家にいるのが最後の日だということで、

僕を含む家族5人と祖父母2人で、祖父母宅の食卓に集まり、最後の記念写真を撮りました。

 

祖母の方は、サ高住に引っ越すことにあまり抵抗はなさそうで、いつも通りニコニコしていました。(認知症の進みが酷く、あまりよく理解していないのもあったかと思います)

 

祖父の方は、住み慣れた家を離れること、隣に住んでいた僕たち家族(特に祖父の息子である父)と離れることが不安そうでした。

祖父「お前らと別れたらわしは終わりじゃ」「いよいよワシはあの世に逝くんじゃ」

と酷く嘆いていました。

 

家族で写真を撮り終えた後、しばらく祖父母の家の中を1人で散策して周りました。

しばらく歩くと、祖父母が大切に居間に飾っていた、幼稚園で撮った祖父母と弟が一緒に写っている写真と、僕が小学4年の時の時に亡くなった祖父母の愛犬『ロン』の15歳の長寿の記念に撮った写真が目に付き、「あの頃はおじいちゃんもおばあちゃんも元気だったのになあ」と思い、涙が出てしまいました。

 

引っ越しは、父と僕の車2台を使い、祖父母と引っ越しの荷物をサ高住まで無事に送り届けました。

祖父母の引っ越しが終わった翌日、僕自身も新卒で入社した会社の配属先へ務めるために、

実家から1時間ほど離れた社宅へとバタバタしながらも引っ越しました。

 

祖父母はサ高住に引っ越してからすぐに1週間の隔離生活に入りました。

コロナの第1波の真っ只中で、全国に緊急事態宣言が発令されており、

新入居者は感染の疑いがあるので、みんな同じ対応を受けていたそうです。

この時の施設は家族との面会禁止。祖父母とは2ヶ月以上会えませんでした。

 

サ高住に引っ越してからすぐに、祖父は「息子と話したい」と何度も施設の人にお願いし、

父によく電話を掛け続けていました。

電話先で「わしはもうダメなんじゃー」、「早く家に帰りたい」と父に嘆いていたそうです。

きっとそれだけ住み慣れた家から離れるのが辛かったんでしょう。

 

6月に入り、ようやくコロナ第1波が収まり、2人という人数制限付きで面会が解禁されました。

祖父母と6月中旬に引っ越して以来、僕はようやく再開が叶いました。

 

祖母の方は相変わらず認知症の進行で、言動はわけのわからないことを言っていましたが、

穏やかさは変わらず、ニコニコしてよく話し元気そうでした。

 

しかし、祖父の変わり果てた姿にびっくりしました。なんと身体中の至る所が転倒によるアザだらけだったのです。体型もかなりやせ細っていました。

施設の職員さんの話を聞くところによると、祖父は入所してから施設の環境に馴染めず、

「家に帰りたい!」と脱走行為を試みたり、認知症の悪化の影響か、他の入居者の方の部屋を夜中にドンドン叩いたり、職員に暴言を吐いたりしていたとのこと。

 

特に施設からの脱走行為に関しては、施設を出てすぐ先が車通りの多い車道なので、このままだと交通事故で命を落とすリスクもありました。さらに、他の入居者にも迷惑行為をするので施設としては我慢し難いものだったかと思います。

施設の職員さんは、僕が祖父と面会する少し前に、祖父を精神科に連れていき、

精神科から効果が強めの精神薬を処方されたとのこと。

 

効果の強い精神薬のおかげで、祖父の施設での問題行動は減りました。

しかし、重い副作用のせいか、歩行不安定になり、転倒を繰り返してアザだらけになったり、

体もやせ細り弱ってきていたとのことです。

 

面会した日も、祖父は落ち着かないのか、部屋から頻繁に出ては、ふらふらしながら施設内を

徘徊していました。

祖父「ご苦労様です。それでは私は家に帰ります」

「ここがあんたの家じゃがな(苦笑)」と話している会話が今だに頭に残っています。

 

「いっそこのまま祖父母を連れて、家に一時的でも帰らせてあげたい」

そんな思いでした。しかし、コロナ禍で面会するだけでもやっと。一時帰宅は到底認められるような状況ではありません。

 

その日は30分ほどの祖父母との面会を終えて、僕は実家に父と帰りました。

まさかこの日が祖父とまともな会話のできた最後の日になるとは思いもせずに。

 

祖父母との面会から2週間ほど経ち、7月の最初の週くらいだったかと思います。

土日は毎週のように実家に帰っていた僕は、その日も金曜日のお仕事を終えて、

社宅から車で実家に帰宅。

 

いつものように晩御飯を食べている時に、たまたまその日は帰宅が早かった父から

祖父が肺炎で入院したと聞かされました。

 

その時は「入院した」と聞いて、心配こそしましたが、すでに84歳の祖父が何かで入院することは珍しくないことだと思いました。

あまり詳しい症状も聞かず、「いずれ退院して元気になって帰ってくれる」

その時はそう信じて、あまり深く考えていませんでした。

 

しかし、そのわずか1週間後。同じようにその週も実家に帰って、晩御飯を食べていると、

父から祖父の肺炎の症状が思ったより酷く、入院している病院の先生から

「処方されていた精神薬が身体に合っていないようです。尿もろくに出ていない状態。

 あと何日かで容態がいつ急変するかわからないから覚悟しておいて下さい」と言われたと聞かされました。

 

あまりにも突然のことでびっくりしてしまいました。

確かに祖父の認知症は酷く進行していました。しかし、入所前の4月の段階では、身体自体はまだピンピンと歩いて買い物にも行けましたし、食欲もしっかりありました。

 

それが施設に預けて僅か3ヶ月で「命が危ない」と言われたのです。

どうしてこんなにすぐに体が弱るようなことがあるのでしょうか。

予想だにしませんでした。

 

この段階で、祖父は重度の認知症と精神が病んできており、会話はろくにできない状態ながらも、食欲はあり、良くも悪くも大声を出したり暴れたりするだけの体力はあったそうで、

父からは「すぐに病院から危篤の連絡は来ることはないと思う。」

「けど、優斗の仕事中に連絡が来るかもしれないから、その時は上司に上手く伝えるように」と、心の準備をすることを余儀なくされました。

 

僕自身、社会人になって3ヶ月と少しが経過し、ようやくお仕事に慣れ始めた頃でした。

少しお仕事がひと段落した時にやってきた突然の知らせに驚き、涙を堪えるのがやっとでした。

 

そして、この頃から祖父母を預けている施設への怒りの感情も湧いてきました。

「確かに祖父は問題行動が多かったかもしれないけど、お金を払って預けているから何とか面倒を見るのが施設の仕事じゃないのか!」

「精神科に連れて行くまでは良かったが、重い副作用が起きている薬を飲ませ続けたせいで、祖父はこんなことになったのではないか!」

口には誰にも出しませんが、こう思うようになりました。

 

祖父の出来事がきっかけで、僕はこの頃から日本の介護問題に関心を持つようになり、

介護業界への転職活動を始めました。

 

7月の段階で、僕も家族も祖父の死を覚悟していましたが、

祖父は精神科から転院した内科の病院での治療により、1度は持ち直し肺炎が完治。

内科の病院から精神科への病院に戻り、3ヶ月ほどの入院の後に再びサ高住に戻ることができました。

入院先の病院では個室に入院していたのと、施設に比べてて厚い治療を受けれるので、

祖父の体に合わない精神薬をあまり多く飲まなくていいことが大きかったんだと思います。

 

しかし、施設に戻ると他の入居者もたくさんいるので迷惑をかけるわけにもいきません。

再び施設では祖父の体に合わない重い副作用の薬を服用せざるを得ませんでした。

さらに体が弱った祖父は、それから数週間ほどして誤嚥性肺炎を発症。

祖父は再び精神科の病院に入院。

 

そして、11月の上旬。

転職先として、福岡の有料老人ホームに内定が決まり、僕が23歳の誕生日を迎えた次の日に、実家の母から電話が掛かってきました。

「もうおじいちゃんが危ない。いつ亡くなるかわからない。コロナで禁止だったけど1日15分だけ面会できるようになったから、実家に戻ったら病院にお見舞いに行って欲しい」と言われました。

 

重い精神薬の治療により、祖父の体力はいよいよ限界を迎えたのです。

遂にこの日が来てしまったかと思いました。

 

僕は次の日の会社の出勤で、「祖父がいつ亡くなるかわからない状態なので、近いうちに葬儀等でお休みをもらうかもしれません」と上司に報告。

仕事を終えて、次の日から週末だったので実家に帰宅。

土曜日に祖父の入院する病院に面会に行きました。

 

2人の人数制限付きで、わずか15分だけの祖父との面会。

父から事前に聞かされた通り、祖父は変わり果てた姿でした。

ほぼ寝たきり。大きく口を開けていびきをかいているだけ。

以前とは見る影もない程に痩せ細っていました。

 

土曜の1回目での面会の日は、祖父はほとんど反応がなく、

父の呼びかけに一瞬だけ目を開けて、

父の「優斗のことわかる?」に、

祖父「わかります。わかります。」と少し頷いていただけでした。

 

日曜日も父にお願いし、お見舞いに同行。

この日は少し調子が良かった祖父は、僕が入室してしばらくしてすぐに反応してくれました。

「元気かー?」と言い、強く父と僕の手を握ってくれました。

そして、「早く帰ろう!」と訴える祖父。

 

僕のことを最後までちゃんと覚えてくれたことがこの時は本当に嬉しかったです。

だって、孫の中では一番早く生まれたのが僕で、22年間一緒に時を過ごせましたもんね。

 

15分の面会はあっという間に終わりました。気まずそうに僕と父に退室を促す看護師さんの呼びかけがありました。

祖父は僕と父が帰ってしまうのが嫌だったのか、最後に大きな声で何か叫ぼうとしていました。

せめてコロナさえなければ、ずっと側にいたかったです。

覚悟していましたが、この日が生前の祖父との最後のお別れの日でした。

 

最後の面会が終わり、その3日後の深夜4時ごろ。携帯のLINEに父と弟からの着信音に僕は目が覚めました。

不在着信が入った地点で察しました。父に折り返し電話したところ、祖父がつい先ほど亡くなったとの報せでした。

 

僕は早朝に上司に電話を入れて、祖父の訃報と葬儀のために今日から休暇をもらいたいことを連絡。

連絡を終えてすぐに実家へ帰宅。祖父の亡骸と面会しました。

 

最後まで苦しく何か叫んでいたのか、目を大きく開き、口も開いたまま。

きっと最後まで家に帰ることを望んでいたんだと思います…

僕は心の中で「おじいちゃん、おかえり」と伝えました。

 

「最後まで何もしてあげられなかった…」。悔しさと悲しみがひしひしと込み上げて来ました。ただ泣くしかありませんでした。

 

しばらくすると、僕の叔父である父の兄も祖父の亡骸に会いに実家を訪れてくれました。

父は叔父に、祖父が10月に誤嚥性肺炎で再入院した際にサ高住の施設から

「うちではこれ以上預かるのは厳しいです」と断られていたことを涙声で話していました。

父が初めて泣いている姿を見ました。

「お父さんが1番辛かったよね…ごめんね。」と僕は心の中で言いました。

でも、祖父のことで父が泣いた姿を見たのはその1度きりでした。

 

祖父の葬儀は、コロナ禍への配慮と父の意向により、近しい親族のみで執り行い、

祖父を天国へと送り出しました。

 

僕が写真写りが悪いのは、祖父に似たからでしょうか?

普段はニコニコしていることの多い穏やかな祖父でしたが、

なぜか写真の時だけ笑わない人で、遺影を選ぶのに家族が困っていたことを今でも覚えています。

 

祖父は焼き場で遺骨となり、祖父の生前の念願だった家に帰ってきました。

祖父の長い認知症との闘病生活、父の必死の通院生活が終わりを迎えたのです。

 

実の父を亡くした僕の父は少し寂しそうでしたが、

それ以上に祖父を送り出せてホッとしているようにも見えました。

 

僕は祖父の葬儀を終え、週明けから仕事に復帰。

転職のため、11月末での退職が決まっていたので、急いで引き継ぎや、担当していたお客さんや配属先への挨拶回りを行いました。

 

最後の出勤を終え、社宅を引き払い、実家に一時的に滞在。

新卒1年目での転職だったので、有休が10日間しか取得できなかったので、

バタバタしながら福岡へと引っ越しました。

そして、僕の福岡での介護士として第2の人生がスタートしたのです。

 

祖父を亡くして、1年と少し経ちました。

もちろん今でも、祖父が亡くなるまで力になれなかった自分への悔しさや悲しさは消えません。

祖父の亡骸に対面した瞬間を思い出せば、否応がでも自分が介護職として働く意味を思い出します。

 

「祖父のように施設の環境に馴染めず、精神を病んでしまい亡くなる人を1人でも減らしたい!」その思いでいつも働いています。

この出来事の影響か、施設の入居者の中でも「早く死にたい!」「生きるのが辛い!」

とマイナスな発言が目立ち、メンタルが弱くなりそうな方には、

特に声かけをして、励まして、必ず1人にしないように意識しています。

 

亡くなった祖父は、僕がどれだけ今の介護をお仕事を頑張っても戻っては来ません。

僕が今できることは、目の前の入居者さんに精一杯向き合い、幸せに最後の時間を施設で過ごしてもらえるように努力するだけです。

 

きっとそれが亡くなった祖父への僕からの最大の恩返しだから、

僕は介護職として今も頑張って続けられるし、介護を楽しく仕事としてできているのかもしれません。

 

これを読んで下さった読者さんの中にも、大切な家族いると思います。

どうか大切な人との今のかけがえのない時間を大事に過ごして下さい。

どれだけ元気でいても、人はいつ亡くなるのか誰にもわからないことなので。

 

今日は書きたいことが溢れて長くなってしまいましたが、これが僕の【介護士になったきっかけ】のエピソードです。

最後まで読んで頂きありがとうございました!

 

引き続き、今年の目標である毎週投稿を続けていきますので、

次回もお楽しみにして下さい!

それではまた来週( ^_^)/~~~