【介護士になったきっかけ① 祖父母の認知症と父の苦悩の在宅介護】
今でこそ、「介護をずっと続けたい!」と思うくらい楽しく働いたり、
介護系コミュニティの『KAIGO LEADERS』でも運営メンバーとして精力的に活動していますが、元から「介護」大好き人間だったわけではありません。
むしろ、その逆で大学生の時は「介護」の「か」の字も頭になく、新卒の就活の時は
「介護だけは絶対にしたくない!」と思うような人間でした。
「安月給!」「汚れ仕事!」「キツい!」
と言った世間一般の「介護」への風評被害をもろに信じていた1人でした。
そんな僕でしたが、新卒わずか9ヶ月しか働いていない地元の大手小売業を退職し、
転職先に選んだのが「介護」でした!
今回は僕が介護士になったきっかけを話します。
今日は【祖父母の認知症と父の苦悩の在宅介護】の話を紹介します。
タイトル通り、今回は少し重めの話を書きます。この出来事は今でも思い出すと涙が出ることもあり、相当の勇気が入りましたが、
僕がいつも心に秘めたモヤモヤをアウトプットして整理したい。
そして、この僕の体験が、読者の方の遅かれ早かれ体験するであろう「介護」に役立つ日が来ると思い、これを投稿します。
祖父の認知症が始まったのは大学2年生の夏頃のこと。実家にお盆休みで帰省した際に、
父から実家の隣に家のある、父方の祖父が軽度の認知症、祖母も認知症か認知症でないかの瀬戸際との診断が出たと聞かされました。
僕はこの頃、「介護」について全く無知でした。「認知症」はテレビではよく聞く言葉でしたが、意味をよくわかっておらず、調べる気もありませんでした。
祖父が認知症になった時に初めてその言葉の意味をちゃんと理解し、
それが人間の老化症状の1つであり、脳の老化なので治らないことを知ります。
ただ、その頃は祖父も祖母も会いに言って話しても、少し物忘れが進んだかな?と思うくらいで、あまり気にも留めていませんでした。認知症がこんなにも恐ろしいものとは思いもしなかったです。
祖父の認知症は少しづつ悪化していきました。認知症の薬は飲んでいましたが、
あまり効いているようには見えませんでした。
認知症と診断されてから1年ほど経った頃、再び実家に帰省した時に、
父から「認知症の悪化でおじいちゃんの車を取り上げた!」
と聞かされます。
父が祖父を連れて病院を受診した際に、担当医に祖父が
「亡くなったお母さんが自分を呼んでいる。この前は車で1日中探しに行った!」
と話したことがきっかけです。
幻覚症状のようなものが出ている?と担当医は判断したのか、父に
「お祖父さんの免許を取り上げて下さい!」
と進言。
ちょうどこの時期から、認知症の高齢者による重大事故がテレビに取り上げられ出した頃でした。
父は担当医の進言に従い、嫌がる祖父をなんとか説得し、祖父の車の鍵を取り上げ、
免許を返納させました。
この判断はその時も今も正しかったと思います。現にこの地点で、祖父の認知症はかなり進んいましたし、あのまま運転し続けたら、下手をすればテレビで取り上げられるような重大な事故が起きていたかもしれません。
祖父から車と免許を取り上げ、そのリスクはなくなりました。
しかし、それから祖父は仕事もとうに引退し、老後生活の楽しみの1つだった「ドライブ」を奪われ、「わしは寂しくてなあ」
と辛そうに言うようになり、少しづつ元気を失っていきます。
祖父と一緒に住んでいる祖母も祖父の後を追うように認知症が進んでいきました。
また、元から腰が曲がりがちで体があまり強くなかった祖母は、歩行も困難になっていきます。
父の仕事と両立しながらの在宅介護も本格的に始まったのがこの頃かと思います。
仕事終わりでヘトヘトにも関わらず、毎日のように夜は祖父母の家にいき、
祖母のトイレやおむつ対応、祖父の自分の認知症による悩みを聞いてやっていました。
僕は大学3年生の終わり頃から地元での就職に備え、実家に一時的に戻っていました。
なので、この父の仕事と両立しながらの在宅介護の苦労は知っていました。
しかし、就活に専念していていることや、介護の知識やスキルが何もないという理由もありましたが、「父がなんとかしてくれるだろう」
と父任せの考えを持っていた自分もいました。
一番辛かったであろうこの時期に、祖父母の在宅介護に力になれなかったことが今でも後悔しています。
父の必死の在宅介護もありながら、祖父母の認知症の悪化は一層進んでいきます。
特に祖父は車を取られ、生活範囲を縛られ楽しみを失ったことや、認知症の悪化でますます頭が働かなくなる自分を情けなく思い、精神も少しづつ病んでいきます。
口癖のように
「わしはもうダメなんじゃー」
と言うようになり、父が仕事から帰り家に帰宅すると、なんども家に訪問し、父に泣くようにすがるようになり、
しまいには夜中に、家族全員が就寝中にも関わらず、チャイムを鳴らして訪問するようになりました。
優しくて我慢強い父でも、仕事をしながら、祖父母の在宅介護、通院、そして認知症の悪化と精神を病む祖父への対応。こんな日が続けば誰でもいつかは限界がきます。
僕が大学での一人暮らしを終え、実家へと戻った2月ごろ。
父は母にも相談し、祖父母を有料老人ホームに預けることを決断。
車で20分ほど離れたサービス付き高齢者向け住宅に祖父母を4月から預けることが決まりました。
ようやく実家に戻れた僕としては、祖父母とようやく残された少ない時間を一緒に過ごせると思っていただけに、ショックでした。
しかし、父が在宅介護をするにも限界なこと、祖父母の認知症の悪化が酷く、
とても2人でこれ以上住める状態ではありませんでした。
生まれた時から同じ敷地で、隣に家があり、毎日会えて遊んで、育ててもらった。
そんな当たり前の存在だった祖父母がいなくなる。
この現実をなんとか受け入れるしかありませんでした。
施設に預ける直前に、祖父が自宅から徒歩数分のスーパーから家に帰れなくなり、
お店の人に保護されるというハプニングが2度発生するなど、色々ありつつも、
4月中旬ごろ、祖父母は住み慣れた家を後にし、サ高住へと引っ越しました。
この時は、寂しいと同時に少しほっとしていました。
父が在宅介護の苦しみから解放されるのと、祖父母を安全な場所で預けて、かつ24時間介護を受けられる状態になるからです。
介護施設にさえ預ければ、しばらく安心だろう。僕の甘すぎる期待は、
この後すぐに裏切られることになろうとはこの時は思いもしませんでした。
さて、【介護士になったきっかけ①】のお話はここまでです。
本当は1記事で読み切りで書く予定が2つに分けないと終わらせれないくらい、
書きたいこといっぱい溜まってたみたいです😭
続きは、近日投稿予定の【介護士になったきっかけ②】でお話します。
ここまで読んでくださった方ありがとうございました!
それでは、また次回👋